聞き分けは悪くていい

 

 Instagramで可愛い女の子を見つけた。一番下まで遡って投稿を見る。どの写真も可愛くて自分との差に気分を害する。可愛い女の子の恋人のアカウントを見つけて、投稿を見る。カップルのプリクラを見ながら気分を害しては気づいたらそれを2時間も続けている。毎日張り合わないことをモットーに過ごしている私はどうしたって何も向上しない。

 とても体たらくな生活をし何も考えていなかった私とは正反対に、強い決断をした男がいる。

先日、応援していた俳優さんが芸能活動を引退されました。引退発表に急じゃないことなんてそうないと思いますが、急でした。小さい頃から子役として活動し、現在20代後半。これからもっともっといい演技を私達に届けてくれると、信じ疑うことなく、ましてや「引退」なんて言葉を彼に掛け合わせたこともなかった。

私が初めて「演技が好き」とはこういうことかと実感した、大好きな役者さんであり、その他にもたくさんの思い入れがある人。

引退発表を目にした時、信じ難くて信じ難くて、手垢まみれな言葉ながら「うそだ」と思いました。「うそだ」と思いたかった。数日間その記事と本人のツイートをことあるごとに見つめ続け、ファンのリプライを読み明かし、どうにか自分に「これは本当なんだ」と突きつけました。

でも彼は決してマイナスではなくプラスを提示してくれました。でも、でも、新しい彼の演技をもう見れないんだ。と思うと、やっぱり悲しく寂しいことばかりで、まだまだ私はマイナスに捉えてしまいます。

聞き分けのいい、イイ女になりたいけどさ、どちらかというと、私はもがき苦しみたくて、苦しくて悲しくて涙を流したまま夜明けを迎えたいから、これでもいいなって、思います。全然聞き分けなんか悪くていい。ただ自分の中に仕舞える程度にね。

 柄にもなく気を張ってしまったテスト勉強のせいで久しぶりに明け方まで起きてしまった時、たまたまBGMで流した曲にやられまくりました。

youtu.be

カネコアヤノ-「やさしい生活」

 *1私はどの分野においても「男」に魅力を感じてしまって、基本的に男性ボーカルのアーティストの曲ばかりを聴きます。インディーズバンドを漁るのがとても好きで、一定周期で行うのですが、それも無意識的に「男」縛りになってしまう。その為あまり女性のアーティストを聴く機会がないのですが、これはちょっと、やられるしかない。

 すごく癒される「自然音」から共に始まる優しいギターの音。実はこれ、サムネイルの画にやられ再生を開始したのに、画と一緒に音にもやられちまった。

MVをめちゃめちゃに褒めちぎりたいけど、しだすと切りがないので、聞き分けよく割愛。

「家はそんなに豪華じゃなくていい」「不便なことが一つくらいある」すごく庶民的で背伸びをしない歌詞に楽器がごった返さないシンプルメロディに暖かみのある画。優しく言葉を紡ぐ声が、最高にいい。

日常なんてきっとそんなに気を張らなくて良くて、もっと好きに走って好きに休んでいいのに、急かす社会に無意識に引っ張られている。すごく疲れて、どうにか自分を自分で抱きしめてあげたい時、これをBGMにしたいな。

 

youtu.be

カネコアヤノ-「とがる」

この曲もいい。いいです。聞いてね!

カネコさんの曲作りはとても自然で日常的なことから始まるらしいのですが、それが曲に表れていてすごく身近に感じられる。素朴な事に目向け耳を傾け生きている人はきっと素敵な考えを展開できる素敵な人。

 こんなことがあったけど、こんなことをしているけど、世界には色んな人がいるから、私なんて全然大丈夫だ。と無理なこじつけをし何とか自分を肯定し当たり障りのない人間を装ってさも自分も普通の人間だと認識し適当な言葉を発してしまう最近は、もっと自分の価値を見改めなければならない。過大評価で自信を身に着けられる人もいるけど、その地点にも立てていない私は過小評価から始める。

私は好きな男に出会って、結婚できずとも結婚して、生涯を終える為に、頑張る。

*1:否定から入るのは自分でもどうかと思うのですが、この入り方を許して欲しい。

割とネタ

 

うちの母はとても「関西人」に抵抗があり、かなり「偏見」を吐きます。

それに反抗するように私が関西人の男を好きになった頃も「あ~こういうノリね。こういうのが好きなの?」と決して私の"好き"を否定しないように、皮肉を込めてめちゃめちゃ言われた記憶があります。私がその関西人から離れてからも、「このバンドが好きなんですよね。」と紹介すると「えーなに関西?」と聞かれます。「いや東京」と答えると「珍しいじゃん!あなたの事だからだいたい関西でしょ」と疑いを辞めてくれない。

しかしそれもあながち間違いではなく、私は結構関西が好きです。

何でこんなにも喋りで人を笑わせられるのか、と真面目に思っていたし今でも思っています。もちろん関西人以外で面白い人も溢れんばかりにいますが、関西はそれが突出して高い(目立つ)。

その場のテンションとノリと見た目で笑かしてくる笑いも好きですが、ひたすらの言葉攻めで笑かしてくる人、すごく好きです。発する「言葉」がとても面白い人って、学校的な偏差値はどうであれ頭が良い。すごくとても嫉妬する。頭の中を巡らせこのシーンに合うと思う言葉を選び抜き発することって、もちろん基本的なことであるけど、それをいかに「おもしろ」にフォーカスを合わせていけるかが難しい。

私は文面が明るい人に惹かれる。例として「よろしくお願いします。」というツイートならば「よろしくお願いします!!!!!!!!!」と投稿してほしい。というかこうして投稿する人が好き。それをずっと見ていると何だか無条件に気持ちが明るくなるし、何だか少しの幸せを分けてもらった気分になる。

ですが、「言葉で笑かしにくる」場合はビックリマークに頼らず「文章」で笑かしに来てほしいものである。めちゃめちゃ真面目じゃん!と思わせておいて最後に下ネタをぶっこむ単純計算の文も、私は嫌いじゃない。

めちゃくちゃ面白い返し頭に浮かんだわ、と確信を持った時、私はその言葉のみで勝負をします。なぜならその言葉のインパクトだけで笑ってほしいから。

それだけですごく美味しいお肉は塩すらも要らないし、何もつけずに食べたいじゃん?噛み締めて噛み締めて、不純物を何も感じずに味わい、「美味しい!」と叫ぶために。

例えば、ガキが憧れるYouTuberというジャンルでも「企画が面白い!」も然ることながら、「トークがバカ面白い」ということが大事。故に私は「概要欄系YouTuber」が好きです。*1 そこの主が面白い言葉を吐いているとそこにいるリスナーもきっと面白い。類友。

少し話が逸れてしまいましたが、私は「関西人」というめちゃくちゃ面白いことを言っている人をしっかりと認識してから、「私も面白くなりたい」との野望を持っているわけです。バカみたいにボケて友人に呆れられたいわけです。「ただの会話」だけでオーディエンスを笑いで包みまくりたいわけです。

海外のコメディドラマをたくさん見て笑いの起こし方を学んだり、私がただ「トークが好き」と思う人のトークをずっと聞いたりしてるんですが、どう転んでも私は面白くなれないわけです。

中学生の頃はひたすら「世の中への皮肉」を吐いているだけでかっこよくそこそこ面白いはずだと思っていたけど、それは正解ではなかったみたい。

いつ何時も面白くありたい私はどんな言葉を吐いていても「ネタ」だと捉えて笑ってほしい。「死にそう!!」とツイートしていてもあくまで"私は"死なないし、もし死んだときは天国から「死んだ」とツイートを投稿します。できないけどね。これ笑って。今、今だよ!

でもこれは私の話であるので、皆はどうかわからない。皆が本気で打って投稿しているかも知れないツイートも、私の頭では私だったらネタ。と自分の基準で決めてしまうので、見落としているかもしれない。あなたのSOSを。

このように「おふざけ」も行き過ぎてしまうとダメですよね。表現の自由は縛られてはいけないけれど、こういう部分は制していかないと他に悲劇が及んでしまう。すごく難しい調和だと思います。人間縄文時代に戻っても全くの平和は作れないと思う。

 

私は一番最初の話から派生して段々道を逸れ、収集がつかなくなる文章を書くのがとても得意です。今もそう。もはや誇りですね。違うけど。語彙が豊富で心を持っていかれる文章を息を吸うように吐ける人間になりてぇもんです!ところで私は一週間前に見たビデオの男優さんの名前がしりたくてしょうがない。そんな気持ちで書いたのでこれは全部ネタです。割と。全部。

 

*1:無編集でバカ面白い人も好き。だって面白いから。

ショートボブの女

今日もまた、一人の男を眺め沢山の音楽に助けられ、要領よく生きていけない自分をどうにかこうにか正統な道へと誘っている。

好きなバンドの好きな曲をスタートにYouTubeミックスリストを流し、流れてきた女の声に嫌な顔をして画面をタップする。心地の良い曲に巡り合い、高評価を押してしばらくリピート。治療してもらったのに痛い左下の奥歯を気にかけながら行きたくない気持ちが勝り通うのを辞めた歯医者さんのことを思い出して自分の社会性の無さに脱力する。


電車に乗り込んで来たキャメル色のコートを着た細い男の人が空いていた座席に座り寒そうに体を縮こませかなり強く両手を握り締めていた。
私は中肉中背の安心する体格を持った男の人が好きだ。ふくらはぎを私の右足で蹴り飛ばしたらすっ転げてしまいそうな男など、求める「安心感」がまるで得られない。
しかし上記のような男の人が目についてしまう。そう、経験から自分が自分へ定めた「好み」など最初から最後まで通る訳ではない。私自身だってよく考えたらどうでもいいような好みに当てはまらない男をその場のノリで「好きだ」と口走ることもある訳です。見る分の「好き」と関係を持つ分の「好き」に違いがあることは決しておかしいことではなく、矛盾が起こることが正当だ。(パラドックスかな?)


自分が自分へ定める「好み」のデータ収集を趣味としている私は、好きだった男と現在進行形で好きな男の共通点を調べたります。*1
例に挙げると、黒髪・A型・若手・目が細い・「笑顔」という言葉を大事にしている、など。他にも 「7」という数字に縁があるとか、口元にほくろがあるとか。しかしここまで書いてきたことはどうでもよく私がこの場を借りて訴えたいことはただひとつ。皆「ショートボブの女が好み」ということです。ロングよりも髪の短い女が好みであり、スカートよりもパンツスタイルが好きである。今の好きな男もラジオで「ショートボブが好き。スタイルが出る服を着てほしい。皆がショートボブになったら僕が喜びます」と言っているし、共に「胸よりもお尻」が好きな男を好きになりがち。髪型はショートボブ、パンツスタイルが似合い、魅力的な足とヒップを持っている女に私は随時嫉妬する。


何回か同じ電車になった茶髪の男の人の襟足に魅力を感じガン見をしていたら、いつの日か襟足だけでその人だと確信を得るようになったり、飼い犬が今日も元気に吠えていることに幸せを感じ、白米を噛み締めて食べる日がある。最寄り駅の階段を降り、何かの宗教団体の人を確認すると寒い中大変だな・・・と他人事のようなことを思い、それでも少し缶コーヒーでも差し入れてあげたい、という善の気持ちが巡るもそれは元から実行する為の思考なんかではない。コミュニケーションを図る部分の脳の発達は到底パリピに及ばないが、考えるだけの力は決して悪いものではないと自負している。


私の将来に掲げる目標は「結婚」であり、占い師に私は一生の間に結婚できるかどうか聞きたい、と心底思っている。しかし「あなたは結婚できない」と言われた日には生きる意味を失い死を意識せざるを得ないため、少々リスクを伴う。ただ「あなたは結婚できる」と言われたら、私はそれからの毎日どんなことがあっても笑顔で頑張るし、たとえ独身時代に戦争が起きようと結婚できる未来を信じて希望を捨てず生きて行けると思う。結婚は力なり。新手の結婚宗教かな?入ります。
20歳に結婚の兆しが見えずとも私は40手前まで諦めないつもりでいるし、婚活めちゃめちゃする。マッチングアプリめちゃめちゃいれるしサイトにめちゃめちゃ登録する。
近い将来私が「ショートボブの女」になってる可能性を皆さん持っていてください。90%ぐらいはないけど、10%ぐらいはある。


2017年はたくさんのことがあり、変わったものや、変わらなかったもの、生の推しに圧倒されるあまり呼吸の仕方の忘れたり、都会の冷たさを学んだ年でありました。2018年はたくさんの"変わらないこと"を抱きしめて、たくさんの"変わったこと"を吸収できる一年にします。99の失敗に1の成功が付いてきてくれるならそれでいいですね!
2018年は2回!!ぐらい!!!!!推しに!!!会いたいです!!!!!!!!!ショートボブの女じゃないけど!会いたいです!!!!!!よろしくおねがいします!!!!!!!

*1:推しのみのデータ

走れ、絶望に追いつかれない速さで


今、「いのちの車窓から」という本を読んでいます。以前プライベッターに出した早く過去形に、という記事の冒頭で言っていた「好きなアーティストの本」とは"働く男"という同じく星野源さんが書いた本。エッセイを読んでいるとすごく文章を書きたい衝動にかられます。前も、今も。


私は英語の授業がすごく苦手です。英語の授業が始まった小学3年生の頃からずーーっと変わらず苦手です。繰り返される"ゲーム感覚で"という言葉と、始まる英語を使ったゲームがどう考えても楽しくありませんでした。日本に生まれ、日本語を使い生きているのにわざわざ他国の言葉をわざわざ日本語に訳し、意味を覚え、それを学ばなければいけないことが私にはよくわからず、日本語を否定されている気持ちになったりします。こう言うと私自身でも「英語を話せた方がいいから」という安直な正論が出てきたりしますが、それよりも私は日本語を学びたいと強く思います。

知り合いに海外に行きたい(留学をする)と言う人が数人いて、その理由や話を聞いても私は海外に行ってみたいと思うばかりか、日本の良さを再確認するだけでした。

私は邦楽が好きで、邦画が好きです。今話題のミュージカル映画より、手を伸ばす映画は静かに人間の性(さが)を描くような作品が多い。

「走れ、絶望に追いつかれない速さで」という映画を見ました。


映画『走れ、絶望に追いつかれない速さで』予告編A

何の脈絡もなく死んだ親友の「死」を通して静かに描かれる、「生」への道筋。

本当に淡々としています。一番身近である親友が死に、まだ真っすぐ前を見れていない感情の表現、親友の死に向き合おうと行動を起こす発展の仕方。変にBGMを使わず、演技も演出もとてもナチュラルです。私はこの静かに揺れ動く心を描くものが大好きです。

演者の息遣いや海の音、綺麗な風景。「若者たちは、太陽を目指した」という言葉が書かれているのですが、その通り、最後に向かうにつれ、しっかりと明るさに向かっている姿が感じられます。親友に向き合うため、親友が最後に描き残した中学時代の同級生だという女の子に会いに行きますが、この映画の着眼点は「なぜ死んだのか」ではないので、最後までそれは視聴者側には伝わりません。ただ、何かを知り、感じ、やっと受け入れられた、というかのように、漣(主人公)は本編で初めて泣きます。ご飯をかきこみながら静かに。

親友の死後の"今"と親友が生きていた"過去"の楽しそうなシーンに少し時間軸が混乱するところもありましたが、リアルな儚さを感じ、私は特に気になりませんでした。

大学生・男二人が軸となり紡がれるストーリーを一生大事にしたいと思う。いや~~~~~、本当に。個人的に主演の太賀さんに触れるのは3回目なのですが、簡単な言葉ながら、素晴らしい、と思いました。漣が泣くシーンを境に、小さく変わっていく表情や描き方に感動しました。というか、私は単に葛藤と共に泣いている人が好きで、泣いている顔が好きなので、もしかしたら無条件かもしれません。

映画本編もさることながら、度々かかる音楽がさりげなくキレイで、私の人生のBGMにしてほしいと思いました。いつか私題材の映画を作ることがあればBGM・主題曲はこれで宜しく願いたい。そんなことはありません。

GWということにかこつけてひきこもりニートになってやると意気込み、DVDの映画を見たり起きる時間をフリーにしたりしたのですが、とても嬉しいことに遊びにも出向けたので、私はすごく幸せです。結局ね。私の中のGW初日・3日水曜日にこの映画を見て、呼吸をするように"記事を書く"を押し、打ち始めましたが、今はGW最終日・7日日曜日です。3日ぐらい温めという名の放置をしました。それなのに私は明日の数学に向けた勉強を一切していないし、テストのある漢字も何一つインプットしていません。連休っていこういうものだよね。夏休みの宿題を思い出しました。少しなまった体を叩き起こすべく頑張ります。男の人同様私も糧を持って、力強く。